Roma ローマ
だれがローマを造ったか?
ローマはローマ人が造ったのではなく紀元前700年ころエトルリア人(中近東あたり)が古代オリエント文明を持ち込んだと言われています。
イタリア北部と中部の12都市連合を築き上げたそうです。
同じころイタリア南部とシチリア島にギリシャ人が植民地を築きエトルリア人と激しく争っていた。
紀元前509年エトルリア人の国王の専制政治に不満を持っていたローマ民衆が国王を追放しローマは共和国となった。
ローマ共和国の支配は、紀元前275年イタリア全土におよび紀元前264−146年におきた3度のボエニ戦争で宿敵カルタゴを滅ぼし地中海最大の国家となった。
しかしローマ共和政は独裁者ルキウス・スラの登場とポンペイウス、クラッスス、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の3将軍による三頭政治のはじまりで名ばかりとなった。紀元前58−51年カエサルがガリア(フランス)を征服し、共和国の単独支配者となりそれまで政治をつかさどって来た元老院がおかざりになってしまった。
紀元前44年追い詰められた元老たちがカエサルの暗殺を決議し、ローマ帝国を成立させ暗殺に加わったカエサルの甥オクタヴィアヌスとアントニウスのあいだで権力闘争が起き、これに勝ったオクタヴィアヌスは紀元前27年ローマ帝国初代皇帝アウグストウスを名乗った。
以後200年にわたりローマは繁栄をきわめた。
紀元117年ローマ帝国は最大となり、ヨーロッパの大半と北アフリカ、小アジアの一部が領土となったが、ローマ帝国は巨大になりすぎたことから崩壊がはじまった。しだいに各地の総督や司令官が離反し、395年帝国は東西に分裂。
西ローマ帝国はゲルマン民族大移動に巻き込まれ476年に滅亡した。
東ローマ帝国(ビザンチン)はコンスタンチノーブルに首都をおき、いったんは東西帝国の再統一に成功したものの、ゲルマン系ロンバルド人の侵入にあい、多くの領土を失った。
以後、イタリアは小国家が林立し、ローマは教皇やキリスト教
指導者により支配された。
11世紀になると北イタリアのミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなど各都市が自治都市に発展した。
南部にはノルマン人が侵入して両シチリア王国を築いた。
14世紀になると皇帝派ギベリンと教皇派ゲルフの争いが激しく
なり、これにミラノのヴィスコンティ家、ヴェローナのスカラ家など
領主間の争いがおこり、各地で混乱が続いた。
14-15世紀にフィレンツェを中心にルネッサンスが花開いた後、16世紀にイタリア支配をめぐり、フランス王家とスペインのハプスブルク家が対立した。その後もスペイン継承戦争やオーストリア継承戦争に巻き込まれ、めまぐるしく支配者が入れ替わった。
イタリア統一の動きが出るのは、ナポレオンの支配が終わり、1815年ウィーン会議による国家返還が決定された後の事となる。
イタリア統一の中心となったのはサルデーニャ王国の 首相カミロ・カヴールだった。1861年にイタリア王国が建国された。
第二次世界大戦後ムッソリーニ失脚後1946年国民投票でイタリアは共和国となった。
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